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大御堂観音寺
寿宝寺
酬恩庵(一休寺)
禅定寺
蟹満寺
神童寺
海住山寺
現光寺
笠置寺
浄瑠璃寺
岩船寺
恭仁京跡
平安時代後期(794-1185)に書かれた、インド、中国、日本の有名な説話集である『今昔物語』に登場することから、蟹満寺(または「蟹に満ちた寺」)は有名です。ある話の中で、慈愛の仏様である観音を深く信仰した若い女の子が、別の村人が蟹をいじめているのから救いました。観音様は、その後起きる恐ろしい悲運から女の子を救うために蟹に姿を変え助けました。 敬意と感謝の気持ちで、女の子とその父親は、蟹を祀るために寺院を建てました。 今もこの教えにちなんで、毎年4月18日に沢蟹を放生する蟹供養放生会が行われています。本尊は、巨大な2.2トンの金銅による「釈迦如来座像」で、 日本の国宝です。
蟹満寺の歴史的起源は良くわかっていません。 今日では、1つの本堂を持つ控えめな大きさの寺院ですが、1990年の発掘調査で、1300年前(7世紀末近頃)は今より大きな寺院であったという痕跡が残っていることがわかりました。この痕跡は、この寺院の起源であり、その規模から国家の勅令、又は、この地域の大きな氏族の建立であると考えられています。その一族の特色として織物の優れた技術があった為か、神仏の堂塔に供えられる織物の幡の総称である「神幡」「綺」(かばた)の名が付けられたようで、建立当初の寺名として「紙幢多寺」「綺寺」(かばたてら)という名が古文書に見られます。大きな古代寺院であったと考えられていますが、火災等により荒廃していったと考えられています。
その後、日本で観音菩薩の信仰が流行するに伴い、この地方の蟹の恩返しの仏教説話ができ、平安時代後期(794-1185)に書かれた今昔物語(インド、中国、日本の三部構成の物語集)等の仏教説話集に取り上げられ、荒廃していた紙幢多寺と結びつきその説話に基づく蟹満寺(蟹が満ちる寺)という寺名に名前が変わったとされています。
数ある物語集の中の一つでは、昔、この辺りに慈悲の深い菩薩である観音様を深く信仰している家族が住んでいました。ある時その家族の娘が、自分の食べ物と引き換えに村人から沢蟹を救いました。またある時、その家族の父親が、蛇がカエルを飲み込もうとしているのに出くわします。父親はカエルを助けようとしますが、つい魔が差して娘を嫁にやることを条件に出し、カエルを助けてしまいます。その夜蛇は、その約束を家族に迫りますが、従うわけにもいかず、家族は観音様に助けを請います。夜が明けて外に出てみるとたくさんの蟹と大きな蛇が死んでいました。これはきっと観音様が、娘が以前助けた蟹に身を代えて助けて下さったのだと思った家族は、蟹と蛇を埋葬し、その上に御堂を立てて観音様をお祀りしたそうです。たくさんの蟹によって災難から逃れることができたことに感謝して建てられたお寺であることから「蟹満寺」と呼ばれています。
蟹満寺の本尊は釈迦如来坐像です。 釈迦如来は、歴史仏や仏教の創始者であるシッダールタ王子としても知られており、しばしば現世の導を祈り信仰されています。 この金銅仏像(神聖な仏の彫像)は、約2.2トンで、高さは240センチメートルです。 1,300年以上前に作られたと考えられており、日本の国宝です。
蟹満寺の本尊は「釈迦如来坐像」です。釈迦如来は、仏教の開祖である、釈迦もしくはシッダールタ王子としても知られ、導きと悟りのために信仰を集めています。
蟹満寺の釈迦如来坐像は1300年以上前に造られたと考えられており、その完全に近い保存状態から国宝に指定されました。この年代に作られた、大きさの金銅仏は4体しかなく、重さ2.2トン、高さ240センチメートルです。
この彫像はもともとこの寺にあったのか、他のところから移されたのかの説があるが、近年の調査では元々この寺院の本尊である説が有力です。特徴としては、大きさ、ほぼ完全な状態で現在に至っていることとその荘重な表情と手の形や配置です。
JR学研都市線(片町線)祝園駅・近鉄京都線新祝園駅よりタクシー約10分。/JR学研都市線(片町線)・奈良線・関西線木津駅よりタクシー約15分。/JR奈良線棚倉駅より徒歩約20分。
平安時代後期(794-1185)に書かれた、インド、中国、日本の有名な説話集である『今昔物語』に登場することから、蟹満寺(または「蟹に満ちた寺」)は有名です。ある話の中で、慈愛の仏様である観音を深く信仰した若い女の子が、別の村人が蟹をいじめているのから救いました。観音様は、その後起きる恐ろしい悲運から女の子を救うために蟹に姿を変え助けました。 敬意と感謝の気持ちで、女の子とその父親は、蟹を祀るために寺院を建てました。 今もこの教えにちなんで、毎年4月18日に沢蟹を放生する蟹供養放生会が行われています。本尊は、巨大な2.2トンの金銅による「釈迦如来座像」で、 日本の国宝です。
歴史
蟹満寺の歴史的起源は良くわかっていません。 今日では、1つの本堂を持つ控えめな大きさの寺院ですが、1990年の発掘調査で、1300年前(7世紀末近頃)は今より大きな寺院であったという痕跡が残っていることがわかりました。この痕跡は、この寺院の起源であり、その規模から国家の勅令、又は、この地域の大きな氏族の建立であると考えられています。その一族の特色として織物の優れた技術があった為か、神仏の堂塔に供えられる織物の幡の総称である「神幡」「綺」(かばた)の名が付けられたようで、建立当初の寺名として「紙幢多寺」「綺寺」(かばたてら)という名が古文書に見られます。大きな古代寺院であったと考えられていますが、火災等により荒廃していったと考えられています。
その後、日本で観音菩薩の信仰が流行するに伴い、この地方の蟹の恩返しの仏教説話ができ、平安時代後期(794-1185)に書かれた今昔物語(インド、中国、日本の三部構成の物語集)等の仏教説話集に取り上げられ、荒廃していた紙幢多寺と結びつきその説話に基づく蟹満寺(蟹が満ちる寺)という寺名に名前が変わったとされています。
数ある物語集の中の一つでは、昔、この辺りに慈悲の深い菩薩である観音様を深く信仰している家族が住んでいました。ある時その家族の娘が、自分の食べ物と引き換えに村人から沢蟹を救いました。またある時、その家族の父親が、蛇がカエルを飲み込もうとしているのに出くわします。父親はカエルを助けようとしますが、つい魔が差して娘を嫁にやることを条件に出し、カエルを助けてしまいます。その夜蛇は、その約束を家族に迫りますが、従うわけにもいかず、家族は観音様に助けを請います。夜が明けて外に出てみるとたくさんの蟹と大きな蛇が死んでいました。これはきっと観音様が、娘が以前助けた蟹に身を代えて助けて下さったのだと思った家族は、蟹と蛇を埋葬し、その上に御堂を立てて観音様をお祀りしたそうです。たくさんの蟹によって災難から逃れることができたことに感謝して建てられたお寺であることから「蟹満寺」と呼ばれています。
宝物と芸術品
蟹満寺の本尊は釈迦如来坐像です。 釈迦如来は、歴史仏や仏教の創始者であるシッダールタ王子としても知られており、しばしば現世の導を祈り信仰されています。 この金銅仏像(神聖な仏の彫像)は、約2.2トンで、高さは240センチメートルです。 1,300年以上前に作られたと考えられており、日本の国宝です。
蟹満寺:釈迦如来坐像
蟹満寺の本尊は「釈迦如来坐像」です。釈迦如来は、仏教の開祖である、釈迦もしくはシッダールタ王子としても知られ、導きと悟りのために信仰を集めています。
蟹満寺の釈迦如来坐像は1300年以上前に造られたと考えられており、その完全に近い保存状態から国宝に指定されました。この年代に作られた、大きさの金銅仏は4体しかなく、重さ2.2トン、高さ240センチメートルです。
この彫像はもともとこの寺にあったのか、他のところから移されたのかの説があるが、近年の調査では元々この寺院の本尊である説が有力です。特徴としては、大きさ、ほぼ完全な状態で現在に至っていることとその荘重な表情と手の形や配置です。