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恭仁宮跡(山城国分寺跡)

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  • 小さな丘に囲まれた、瓶原の盆地にかつての日本の都「恭仁京」の宮跡があります。現在は、木津川の北に位置した田園地帯の中にあり、広く一面に野草が生い茂っており、公園のように市民の憩いの場となっています。しかし、注意深く見ると、あちらこちらに礎石を見つけることができます。これは、恭仁京の遺跡です。現在、ここは地域の人々が集う大事な場所となっています。多くの場所で家族連れが、ピクニックやアウトドアを楽しむために開放されています。広い空間では、イベントやお祭りも行われます。この宮跡は、今も地域文化、伝統を守る重要な役目を担っています。

    歴史

    740年、疫病や戦乱に見舞われ、社会不安が全国的に高まりました。これを機に聖武天皇(701-756)の勅命により遷都しました。この遷都には、藤原氏と橘氏の二つの有力勢力の権力争いが強く影響したとされています。藤原氏の勢力は、その時の都、平城京にありました。橘氏の勢力は、南山城にあり、この時の勢力は橘氏に傾いていたと推測されます。しかし、天皇が移られた翌年の新年(天皇は正式な儀式において新年の挨拶を受けられました)をその地で迎えられましたが、城はまだ完成していませんでした。また翌年にも完成せず、住むことはできませんでした。そのため新年の儀式は、間に合わせの施設にて行われました。744年、天皇は再び遷都をし、この時は難波宮に移りました。恭仁京は、たった3年という短い期間で終わりました。都の完成をみることもありませんでした。744年、恭仁京の建築物の残りは、山城国分寺へと組み込まれました。

    現在、宮跡に残っているのは、建物の礎石です。この礎石から少し離れたところに残っているのは、寺院の七重塔礎石です。1973年の発掘調査において、さらに建物の礎石が発見されました。

    恭仁宮跡写真
  • 拝観時間 自由
    拝観料 なし
    住所 〒619-1106 木津川市加茂町例幣中切29

    アクセス

    JR大和路(関西本線)加茂駅から奈良交通バス和束町小杉行き約5分、「岡崎」下車、徒歩10分。

    恭仁宮跡写真